仏教の教えに「足るを知る」という言葉があります。
あれが欲しい、これがしたい。こうでなくっちゃ駄目だ・・・とか。
いつでも手を広げて自分の外にあるものに対し欲深くなっていては、いつまでたってもどんなに与えられようとも、一向に幸せを感じることはできません。
こんなふうにに思うのは、自分が不完全であることが大前提です。
自分にはここが足りない、これがないから幸せじゃないんだと、外にばかり目が向いている人はきっと、ひとつ欲しかったものを手に入れたところで満足するでしょうか?
それよりも、自分の内を見つめること、自分はすでに完璧で、たくさんのものを与えられていることに気付くことさえできれば、いつだって自由で、いつだって幸せを感じられるということ。
この教えの解釈もまた人によって感じ方はそれぞれだと思います。
「あれも欲しい」、「これも手に入れたい」という欲求は捨て去って、禁欲的でないと人間の格が上がらないと言われているようにも感じられますが、そういうふうに解釈すると、仏教と自分・・・ずいぶんかけ離れたものに感じて、毛嫌いしそうになります
そんなストイックなことではなく、もっと簡単なこと。
「今の自分はすでに完璧な存在である」というと、え~

・・・となりますが、もっと噛み砕いていうなら、今の自分をありのまま、そのまま認めるということ。
外にばかり目を向けたがる理由のひとつに、実は自分のことを見つめたくない、自分のことを嫌いだったり、認めたくない部分があるのかもしれません。
人間は、機械とは違い感情があります。日々その感情は変化するため、いつも一定でいることはとても難しいですよね?
常にいい状態というわけにもいかないなら、そのブレてる感情をも丸ごと受け入れるということ、それを含めてあなたは完璧だということ。
足りないところを外から持ってきて埋めるのではなく、今の自分の完璧さの上に新たな成長の種を見つけたら、それを大切に育てて行く努力をするということ。
幸せは、外に探しに行くものではなくて、自分の心の在り方次第で、すぐに見つけられるんだと思います。
